2014年10月2日木曜日

10/2 そんな日々


●上の写真は先週の勉強会での「エチュード」の写真。

エチュードというと個人的に思い出すのが2007年ごろに受けたワークショップでの経験だ。

ランダムに組まされた相手とキャラクターの基本設定だけざっと決めて行うというもので、私は相手の女性が高圧的な経営者で、私は気弱な殺し屋というキャラ設定。

私の"気弱"という設定は私の外見とか醸し出す要素に一番ぴったりくるもので、見てる人間にも受け入れやすい設定だったと思う。

相手の女性というのが、これまた凄く上手い人で自分の与えられた設定を最大限に表現しつつ、私の稚拙な台詞の投げかけを全部良い感じにキャッチしてくれるのだ(この女性の名前を後でネットで検索したら商業作品にバンバン出てる人でした。ワークショップって、そういう人が普通に参加するから面白いんだよね)。

エチュードの流れとしては気弱な殺し屋の私が気の強い女性経営者を殺しに行くのだが、罵倒されたり諭されたりしながら最終的に反撃されて私が殺されてしまうというオチ。

エチュードにありがちなグダグダな空気には一切ならず、良い感じに起承転結もついたりして、見ている他の受講者からも始終笑いが起きていた。

講師の評価も最大限の賛辞とは言わないまでも、そこそこ良いものだったと記憶している。

このささやかな成功体験に囚われて、以降も他の場所でエチュード的なことをやるときは、いつも全体の流れを綺麗に整えようとしてしまう。

でも、そうそう上手くはいかない(=_=)。

役者を自称する人間なんて、たいがい自意識過剰な人間が多い。何か機会を与えられれば俺が俺が私が私がと前に出ることばかりを考える。

エチュードなんて、まず上手くいかないことのほうが多いのだ。

実際のところ、冒頭のエチュードに関して言えば、たぶん相手の女性が私に合わせてくれたんだろうな。


●それから、ずっと後になって2012年に参加したワークショップでの出来事。


このときもエチュード的なことをおこなったのだが、新宿の駅前でゲリラ的に行って、それをカメラで撮影したものを後で観て皆で評価し合うというもの(↑写真はその時のもの。真ん中の2人が演者で左の黄色い服の男性がマイクを持っている)。

出だしとオチのみ講師が決めていて後は演者が自由にやってよいという流れだった。

どちらかというと常に優等生的な振舞いを心がけている私だが、この時はナゼか状況に大興奮

自分でも理解できないくらい悪戯心が出てきて講師の決めた縛りを全部無視してメチャクチャにやってしまったのだ。

結果、組んだ相手は半ギレ状態w

自分でもエチュードとしての手ごたえは全然なくて「あーこりゃだめだわな」と少し反省モードだったのだが講師の評価は予想に反してとても良かった。

●たぶん"常に""絶対に"ではないけれど、全体的な流れなんかを考えずに自分が楽しむこと中心に多少ムチャクチャ気味くらいにやったほうが正解なのかな?と思う。

実際エチュードなんてインプロヴィゼーション(即興劇)を定期的にやる人間ならいざしらず、自分みたいな人間は、それこそワークショップとかオーディションなんかでしかやる機会はないのだ。

だから自分の個性を押し出すことを強く意識したほうがいいのだ。

けれど、いざとなると自分にブレーキをかけてしまうものがある。

それは、ある種の歪んだ美意識で(冒頭のエチュードのエピソードの際に生まれたもの?あるいは、それ以前から存在していた?)エチュード的なことに限らず、演技全般の事柄に影を落としているように感じる。

それを打ち消すことが当面の最重要課題なんだろうな。


・・・・・・・・・・などというような葛藤と苦悩の日々を生きています(=_=)。








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